コレクターのコラム - 美の演出

HOME > コレクターのコラム > 鳥海青児と鈴木治

鳥海青児と鈴木治

鳥海青児

鳥海青児 ピカドール

鈴木治

鈴木治 馬

鳥海は気にいったモチーフには数点から数十点同じタイトルの繰り返しがみられます。同じ画題の「ピカドール」は大小合わせて約15点みられます。小振の「ピカドール」を購入するつもりで、暫らく預っていました。
或る画商から「ピカドール」の代表作がある所にあるのを知っている。希望があるのなら話しをする。暫らく購入を待つように言われました。数日後、その画廊の人が手ぶらでみえました。私がどのような作品をもっているのか、又美術に対する見方はどうなのか、話しをしながら、面接試験をされていました。

後日この「ピカドール」を持って来てくれました。タイトルは武装した馬(ピカドール)1970年第3回現代美術展での大賞を獲得。その資料を調べましたら鳥海の画集、展覧会にはすべて出ています。私の所へ来てからは全くの行方不明の状態です。
この絵に対して気の毒に思っています。2-3年前 鳥海展をみました。見終って、「アレェ」色が綺麗だ。'99年アムステルダム市立美術館からきた「20世紀の美術の冒険」に目を引くデュビュッフェがありました。
そのときも色が綺麗だと暫らく立ちすくんだ時のことを思い起しました。鳥海やデュビュッフェに色が綺麗だというのもおかしな話です。鳥海は日本の古美術に深い関心をよせ、その造詣の深さが、新たなフォルムの試みと、日本的色感に彩られた静かな秩序を求め、苦闘した人です。

日本の伝統に根ざした形態の単純化をひたすら追い求めた。それが鳥海の厚塗りとなりました。絵具を削り重ね又削りと、床に絵具の塊が散乱。これは「左官職人のような光景だ」と何かで読んだことがあります。この「ピカドール」も、この時代の作としては厚塗です。単なる写生ではなく、人馬一体を極度に単純化している。

中国の古代銅器を想わせる。馬の美しい安定感は銅器の脚を思い起こせる。この「ピカドール」を手に入れた頃から鈴木治の馬が気になっていました。赤陶の馬と違って青白磁のものはほとんど入手は不可能だと聞いていましたので、半ばあきらめていました。最近ある筋から縁あって入手出来ました。
その折遺族の方から添書きに「東京近代美術館の個展後、行方不明になり生前父が残念に思っておりました。今この作品を見て泣きました。自他共に認める代表作です」と記されていました。

絵画蒐集の過程で道具物に惹かれるようになりますよと昔、多くの人から言われました。ものを持って関心が広がっていくのが自然の姿です。20年程前に休雪の茶碗を、人に頼まれたこともあって手に入れました。しかし一向にこういったものに興味がわきませんでした。彫刻及びオブジェとしての焼き物に関心を持つようになりました。

1983年東京の老舗の骨董店が鈴木治を扱い出した頃、これも時代の流れかと思いました。1990年高島屋で陶芸の現在-京都からの10人展の開催を機に鈴木治をはじめとして深見陶治、秋山陽、滝口和男等を次々と手に入れました。1948年八木一夫、山田光等と「走泥社」を結成。このグループは陶芸の分野から用を持たない革新的作品を生み、その先駆けとなった陶芸家の一人が鈴木治です。

馬などをモチーフに作られた独特な陶・磁の造形は大らかで、ユーモラスです。その根底には対象を徹底して単純化した上に洗練された知性がただよう。15年程前に地元の陶芸協会の招待講演がありました。
若い陶芸家向けに「我々が日常手にするコーヒー・カップの機能性と形は、定まりきったものになっているが、これを突き破るような発想があっても良いのではないか」という主旨の話しでした。発の柔軟とオリジナリティを大切にする人だという印象をもちました。

鳥海と鈴木はジャンルこそ違いますが、両者が目指したものは図版①、②を例にとれば写生ではなく単純化を極度に押し進めたことです。その過程において削り、重ねて対象をじっと見つめてゆるぎない形にしました。
人を評する言い方のようですが、美術品にも、健康であり、知性があり、それに抑制が利いて品位を備えたモノがあります。図①、②はまさにそのもと思います。こういったモノに強く惹かれます。

(2003年4月 S.T記)

PICK UP